トルコ革命とムスタファ・ケマル

こんにちは、代ゼミサテライン予備校北千住校です。

本日10月13日はトルコ共和国のムスタファ・ケマル・アタテュルク(ケマル・パシャ)が1923年首都をイスタンブールからアンカラに遷都した日となります。

19~20世紀にかけてヨーロッパの帝国主義的発展に押され続けていたオスマン帝国は、第一次世界大戦の敗戦により連合国による領土分割・国家消滅の危機にさらされていました。ムスタファ・ケマルはオスマン帝国の将軍でしたが、オスマン帝国領の不分割を求める宣言をまとめ上げ、分散していた軍を集め抵抗運動の組織化を実現します。連合国により首都イスタンブールが占領されると、アンカラで大国民議会を開き自らを首班とするアンカラ政府を結集して祖国解放戦争を開始しました。

その後、アンカラを目指し、攻勢を強めていたギリシャ軍を「前進あるのみ。目標は地中海」という言葉と共に破り、連合軍とローゼンヌ条約を結びます。この際ムスタファ・ケマルはオスマン帝国政府を廃止、また、スルタン制を廃止してオスマン皇族を追放しました。そして1923年総選挙を実施、共和制を宣言。イスタンブールからアンカラへの遷都を行い、自らトルコ共和国初代大統領の座に就きます。

大統領就任後は脱イスラム国家化を推し進め、宗教学校などを閉鎖し世俗主義、民族主義、共和主義などを柱とするトルコ共和国の基本路線を敷きました。具体的には憲法からイスラムを国教と定める条文を削除し、トルコ語の表記についてもトルコ語と相性の良くないアラビア文字を廃止してラテン文字に改める文字改革を断行するなど、政治、社会、文化の改革を押し進めました。

ムスタファ・ケマルは一党独裁体制を築き上げ、1926年の議会にて「私がトルコだ!」と言い放った逸話があるように、反対派を徹底的に排除して強硬に改革を推進ましたが、その治世下で国家は安定し、「父なるトルコ人」を意味するアタテュルクの姓を大国民議会から送られました。現在までトルコ救国の英雄、近代国家の樹立者として評価され、国父としてトルコ国民の深い敬愛を受けつづけています。世界の近現代史において多くの「英雄」が誕生しましたが、ほとんどが碌な末路を辿らないのに対し、権力掌握後についても高く評価される非常に稀有な存在と言えます。

なお、その死因はイスラム教徒らしからぬ「酒の飲み過ぎによる肝硬変」と言われており、原理的なイスラム主義者からは「背教徒」と呼ばれることもありました。」