革命の闇と夜明け

こんにちは、代ゼミサテライン予備校北千住校です。

1795年の今日10月20日は、フランス革命後、明日に希望が見えない血みどろの嵐が吹き荒れていたパリで、「ヴァンデミエールの反乱」を引き起こした選挙が行われた日に当たります。この事件をきっかけとしてついにロマンを纏った大英雄がその頭角を現すのです。

フランス革命のさなか、王が失脚したフランスでは王政の廃止、共和制の樹立が宣言されました。そしてロベスピエールを中心とする急進共和主義の「ジャコバン派」が政権を握り、ルイ16世は1793年1月23日に処刑されました。政権は強力な公安委員会を中心に徴兵制の導入、革命暦の制定、キリスト教を否定して人間理性を崇拝する宗教を創始するなどあまりにも急進的な施策を強行し、反対する者は「反革命」だとして次々と処刑していきました。これがいわゆる「恐怖政治」です。この状況下でやがて独裁への不満が高まり、革命勢力が分裂し、1794年「テルミドール9日のクーデター」がおこります。これによりロベスピエール一派およそ100名が権力の座から追われ処刑されました。

テルミドールのクーデターの後、フランス経済は悪化して民衆は貧困にあえぎました。穏健共和派のクーデターの首謀者である「テルミドール派」の人気は最悪になり、その対応策として国民公会の選挙に確実に自派の議席を確保できる「三分の二法」と呼ばれる法案を通過させました。これは「選出される750の議席の内、500(3分の2議席)を旧国民公会議員の中から選ばなければならない」という法律で、あからさまな権力維持のための代物であり、これが可決されると、選挙での勝利が見えていた王党派は激怒しました。こうして王党派による「ヴァンデミエールの反乱」が起こるのです。

総選挙が10月20日に行われるが決定すると、パリは不穏な空気に包まれ、ついに10月5日、王党派を中心として暴動が発生、国民公会を襲撃します。国民公会は軍に助けを求め、テルミドール派のポール・バラスを国内軍司令官に任命しました。その際、実際の現場司令官として福官に任命されたのが、かのナポレオン・ボナパルトです。

ナポレオンはパリ市内で散弾を装填した大砲を撃ちまくるという当時考えづらかった大胆な戦法で暴動を素早く鎮圧することに成功します。暴徒は撃退され、翌日王党派の抵抗は止みました。10月25日、国民公会はナポレオンを国内軍の総司令官に任命し、流血の場であった「革命広場」は現在にも残る「融和」を意味する「コンコルド広場」と名前を変えました。以後、パリは完全に軍の制圧下に置かれます。ナポレオンはこの時の成功から人民の人気を集め「ヴァンデミエールの将軍」と異名を取るようになります。これが近代ヨーロッパ最大の英雄ナポレオン・ボナパルトの栄光の始まりだったのです。

世界史 Word Check!

・国民公会(1792~1795):
王権が停止された後立法議会に代り設立されたフランス議会。主導権がジロンド派→ジャコバン派(山岳派)→テルミドール派と目まぐるしく入れ替わった。

・第一共和政(1792~1804):
国民公会が共和党宣言を行ってからナポレオンの皇帝即位までのフランス共和政治体制期間を指す。

・恐怖政治(1793~1794):
ロベスピエールを中心に行われたジャコバン派最左派(山岳派)による独裁政治。反革命容疑者や反対派を次々と処刑、その数16,000人にのぼる。

・テルミドール9日のクーデター:
1794年7月27日(革命歴テルミドール9日)の反ロベスピエール派によるクーデター。恐怖政治の主だったメンバーは処刑され、穏健共和派が国民公会の主導を握った。