こんにちは、代ゼミサテライン予備校北千住校です。
今日10月24日は、996年にフランスでカペー王朝の初代王となった「ユーグ・カペー」が亡くなった日に当たります。フランス王朝成立までに何が起こっていたか、その歴史の流れを見てみましょう。
まず、西ヨーロッパでは4世紀から6世紀にかけてゲルマン民族の大移動により、様々なゲルマン諸国家が建てられましたが、その中で着実に生き残ったのがメロヴィング家のクローヴィスを開祖とする、現ドイツ・フランスをその領域とするフランク王国でした。フランク王国の実権が当時攻め込んできたイスラム勢力を撃退したカール・マルテルに移った後、その子ピピンが751年カロリング朝を開きます。そしてそのピピンの息子が中世ヨーロッパ最大の英雄と言えるカール大帝(シャルルマーニュ)となります。
それまでの西ヨーロッパ世界は「ローマ帝国」を継承できなかった蛮族の地であり、文化・伝統的に東ローマの後継者であるビザンティン帝国の後塵を拝する地であり続けました。しかし現在の西ヨーロッパ中域をすべて支配下に置いたカールに対し、800年のクリスマスの日にローマ教会がローマ皇帝の帝冠を与え、西ローマ帝国の復活を宣言した「カールの戴冠」によって、独自の政治・文化・宗教的なアイデンティティが生まれ、西ヨーロッパ中世世界が生まれたのです。
カール大帝の死後フランク王国は東フランク、西フランク、イタリアに分裂し、それぞれをカール大帝の血筋が継ぎましたがすべて断絶しました。その中の西フランクではパリ泊であったユーグ・カペーがその後を継ぎ初の「フランス王」としてカペー朝を開きましたが、この王権はパリ周辺を支配するだけの極めて弱いもので、王に匹敵する諸侯が多数分立する状態での誕生となりました。しかしフィリップ2世の代にイギリスジョン王との戦争で国内のイギリス領の大半を取り戻し、ルイ9世の代には南フランスを征服して領土を広げるなど、徐々に王権は強化され、絶対王政が確立されていきました。
ちなみに王としては弱体であったユーグ・カペーですが、多くの子孫を残しました。フランス革命とナポレオンの時期を除き、1848年までフランスを支配したカペー朝・ヴァロワ朝・ブルボン朝・7月王政の各王はみなカペーの子孫です。1910年まで続いたポルトガル王家、14世紀にナポリ王国・ハンガリー王国・ポーランドのアンジュー=シチリア家もカペー家の系統であり。現在のスペイン・ルクセンブルクの各王室もユーグ・カペーの傍系の子孫となります。ある意味これこそ勝ち組の人生と言えるのではないでしょうか。
※今日のアイキャッチはラ・フランスです。
世界史 Word Check!
・フランク王国:
481年にメロヴィング家のクローヴィスが全フランク人を統一し、建国したゲルマン人国家。正統派キリスト教への改宗で国力を増し、カロリング家のカール大帝の時代に最盛期を迎える。
・カール大帝(シャルルマーニュ):
フランク王国最盛期の王。西ヨーロッパの主要部分を統一した。800年にローマ教皇により戴冠され西ローマ帝国復活の立役者になった。
・ヴェルダン条約・メルセン条約:
カール大帝後継者によるフランク王国分割の条約。ヴェルダン条約では西、中部、東に分かれたが、メルセン条約では中部フランク北部が再分割されたうえ、ドイツ・フランス・イタリアの原形が成立した。
・ユーグ・カペー
フランスカペー朝創始者。パリ伯からフランス国王に選出され王権の基礎を築いた。