こんにちは、代ゼミサテライン予備校北千住校です。
今日10月27日は1728年イギリスのノースヨークシャーでキャプテン・クックことジェームズクックが誕生した日に当たります。キャプテン・クックは生涯にロマンにあふれる1766年から始まる3度の世界一周旅行の旅を行ったことで知られています。
しかし、人類の初めて世界一周を成し遂げたのはマゼラン艦隊で1522年の冒険でのことでした。また、その後もアルマダの海戦でイギリスを救ったフランシス・ドレークなど、名だたる冒険者が世界一周を達成したのにも関わらず、初の世界一周から200年以上も後のキャプテン・クックの冒険が今も英雄譚として語り継がれるのはなぜでしょうか。彼にしかなしえなかった大航海について見てみましょう
キャプテン・クックは石炭運搬船の見習い船員から英国海軍に入隊し、そこで測量および海図作成技術の腕を認められ、キャリアを積んでいきました。特にカナダのニューファンドランド海域はクックの5年にわたる測量によって、正確な海図が初めて作成されました。この困難な仕事を終えた時にクックは「これまでの誰よりも遠くへ、それどころか、人間が行ける果てまで私は行きたい」と記しています。この功績でクックは英国海軍本部と英国王立協会の注目を受けることになりました。そして、クックは王立協会の指示の元3度の世界一周航海に出ることになります。
第1回目の航海は1768年に出発、タヒチで天体観測をしたのち、ニュージーランドに進み、海岸線を測量しほぼ完全な地図を作成しました。そして北島と南島を分けるクック海峡を発見したのもこの時でした。そこからオーストラリアに進み、オーストラリアとニューギニアが陸続きでないことを確認した後、オーストラリア東岸の英国領有を宣言します。この後ケープタウン経由でイングランドに戻りますが、この航海でクックは船員にビタミンを含む食料を与え、壊血病での死者が一人も出ませんでした。これは18世紀当時としては奇跡的な成果です。
1772年に始まった2回目の冒険では、王立協会から南方大陸(テラ・アウストラリス)の探索を命じられ、ヨーロッパ人として初めて南極圏に突入して、高緯度の地域を周回しました。この航海によって、南方の未確定領域は大幅に狭められテラ・アウストラリスの伝説は沈静化しました。その他新たに多くの未発見の島を報告し、多大な成果を上げたクックは王立協会から名誉職を与えられましたが固辞し、3回目の冒険に旅立つのです。
そして1776年に始まる最後の冒険で北アメリカ西海岸の大部分の海図を作成するなど、又も大きな成果を上げたものの、1779年ハワイで先住民に殺されてその生涯を終えたました。
さて、キャプテンクックの冒険とそれまでの世界一周を成し遂げた冒険のどこに違いがあったのでしょうか。彼は国の依頼を請け、太平洋地域を測量し未開の土地の地図を作ることによって、線だけで構成されていた冒険ルートに形を与えました。世界は広がり、国はその地図に基づき侵略を開始、領土を広げていきます。そして帝国主義時代が訪れるのです。当時その侵略の先鋒を務めることは名誉ある事であり、キャプテン・クックはイギリスが世界帝国へと膨張を始める扉を開いたロマンあふれる領土拡張の大英雄なのです。知ってしまうと現代的な視点からは非常に複雑なものにならざるを得ない存在と言えましょう。
※アイキャッチはニュージーランドのマウント・クックです
世界史 Word Check!
・クック:
イギリスの探検家。1768年からの3回の航海で太平洋のほぼ全域を探検。
・オーストラリア:
1770年キャプテン・クックがイギリス領を宣言した大陸。88年に流刑植民地となる。
・アボリジニ―:
オーストラリアの先住民。イギリス入植前は30~100万人いたとされるが、迫害と疫病で激減。1967年についに市民権が与えられ人口は40万人程度まで回復した。
・ハワイ島:
1778年クックがヨーロッパ人として初めて来島。1779年に殺害され、冒険を追える