みなさんこんにちは。
1854年の今日11月5日に、クリミア戦争の最激戦区セバストポリ包囲戦の最中に「インカーマンの戦い」が起きました。この戦いでは英仏連合軍15,700人にロシア軍31,000人が襲い掛かり、連合軍がその撃退に成功しました。双方の損害は大きく、連合軍4,200人、ロシア軍8,800人の死傷者を出す惨事となりました。
そもそもクリミア戦争(1853~1856)はアブデュルメジト1世のオスマン帝国の弱体化と、ニコライ1世のロシアの南下の野心、ナポレオン戦争後のウィーン体制が揺らいでいたヨーロッパ諸国という微妙な国際関係の元起こった戦争であり、名目上は聖地エルサレム管理問題により、フランスのナポレオン3世ががオスマン帝国から強引にエルサレムのの管理権を取得すると、それに反対するロシアがオスマン帝国に戦争を仕掛けたというのが発端となります。
まず、セヴァストポリを拠点とするロシア黒海艦隊がシノープの海戦でオスマン帝国の艦隊を撃破するなどの戦果を挙げましたが。バルカン半島からイスラム勢力を駆逐することを目指すギリシャの義勇兵が、ロシアと連携すると、1854年オスマン帝国最大の債権国だったフランスがオスマン側に加わり、さらに初めは傍観していたイギリスが、ロシア軍の蛮行を非難する世論のためフランス・オスマン帝国と同盟を組んで参戦しました。ちなみに外道の所業としか言いようのない「アロー戦争」はほぼ同時期の1856年に起こっています。英仏の良心的世論なんて所詮こんなもんです。
英仏連合軍は当初はオデッサを目標としましたが、オーストリアの妨害工作により攻略目標をオデッサからセヴァストポリ要塞に変更しました。ロシア軍は英仏艦隊の侵入を阻止するために黒海艦隊を湾内に自沈させ、市街地全体に防塁を敷き詰めて要塞化しましたが、長期にわたる包囲戦の末にパーヴェル・ナヒーモフ提督やヴラジーミル・コルニーロフ提督も戦死し、1855年9月に放棄を決定しました。各国も継戦能力に限界が来て、ようやく戦争も終結を迎えました。ロシア劣勢で幕を閉じたクリミア戦争ですが、後にパリで開かれた講和会議で、セヴァストポリ要塞は同時期にロシア軍が攻略したオスマン帝国のカルス要塞と引き換えにロシア軍に返還され、双方で25万人を超える甚大な被害のみを出した実質的な勝者のいない戦争となったのです。
ただ、この戦争は今日に影響を及ぼす多くの人物を輩出した、という意味で意義のある戦争でした。例えば「セヴァストポリの天使」と呼ばれ、イギリス兵の死傷率を劇的に下げて多くの命を救い、生涯をかけて近代衛生学の普及に努めたイギリスのナイチンゲールがいます。また、ロシアのトルストイも従軍体験を小説に書いたことで作家として世に出ることとなりました。
一方、この戦争で死の商人としてボロ儲けしていたのがトロイ発掘を行ったドイツ人シュリーマンです。そしてもう一人の有名人、ロシア向けの兵器生産でこちらも巨万の富を築いていたのがスウェーデン人のアルフレッド・ノーベルとなります。後のダイナマイトの発明だけが喧伝されますが、もともと大金持ちだったのです。こういった人物が贖罪なのでしょうか、「ノーベル賞」などというものを創設し、しかもその「平和賞」がそれなりのステータスとされるのは、歴史の皮肉を感じざるを得ないところです。
世界史 Word Check!
・クリミア戦争:
聖地管理権問題を背景にロシアがオスマン帝国内のギリシア正教徒保護を名目にオスマン帝国と開始した戦争。クリミア半島が主戦場となった。
・セヴァストポリ要塞:
クリミア半島南端の要塞。ロシア黒海艦隊の軍港でクリミア戦争最大の激戦区となった。
・モルダヴィア・ワラキア:
ドナウ川河口の2つの地域、オスマン帝国の領土から1859年に事実上独立が認められ、78年にルーマニア王国となった。