こんにちは、代ゼミサテライン予備校北千住校です。
1860年の今日11月6日にアメリカ合衆国で新たな大統領が誕生しました。それが最も偉大な大統領との誉れも高いエイブラハム・リンカーンです。現在でもランキング形式でアンケートを取ると常に1位を争うまさに大統領の中の大統領ですが、実際の在任中の功績はそれに見合うものだったのでしょうか。
リンカーンは1809年ケンタッキー州で生まれ、有能な弁護士として活躍しつつ、1834年からイリノイ州で州議会議員を務めます。1846年アメリカ合衆国下院議員に選出された後、1860年共和党からアメリカ大統領選に出馬します。当時の政治の争点は、合衆国連邦に新規参加する州は奴隷制度につき自主決定権を持つという「カンザス・ネブラスカ法」を認めるか否かであり、スピーチ上手なリンカーンはこれに対して奴隷制度の廃止を訴え、対立候補を破り、第16代のアメリカ大統領に当選しました。
リンカーンの当選が決まると、南部の奴隷州は連邦から脱退する意思を明らかにします。そしてこれらのうち6州は1つの憲法を採択し、アメリカ連合国という主権国家であることを宣言しました。リンカーンと共和党指導者は、連邦を解体することを許容できないという見解で一致しており、北部の州と南部の州に1861年南北戦争の先端が開かれました。
戦火が広がると1863年1月リンカーンは北部を除く南部州の「奴隷解放宣言」を行います。これにより、ヨーロッパ諸国は体面上南部の支持が出来なくなり、また、北軍は黒人兵士を動員することに成功し、戦況は北軍有利に推移します。そして、1863年7月のゲティスバーグの戦いにおいて、北軍が大きな勝利を収めリンカーンは11月に人類史上もっとも有名な演説の一つである、アメリカ民主主義を象徴する「ゲティスバーグ演説」を行いました。
この演説のフレーズ「人民の人民による人民のための政治」という言葉はWW2後日本国憲法を推敲していたマッカーサーも丸パクリし、「そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。」と憲法前文にほぼそのままコピペされています。
さて、リンカーンはは決して人種平等主義者ではなく、当時の平均的白人と同様に人種差別主義者でした。1858年には、「これまで私は黒人が投票権をもったり、陪審員になったりすることに賛成したことは一度もない。彼らが代議士になったり白人と結婚できるようにすることも反対だ。皆さんと同じように白人の優位性を疑ったことはない」と語っています。また、弁護士時代にはインディアンの先祖伝来の土地所有を無効扱いにして白人のために取り上げる裁判を行っていました。現在では典型的なレイシストの行動に見えますが、これは1960年代に公民権運動が高まっていくまでは、合衆国の白人にとっては普通の感覚でした。むしろ少なくとも南北対立の中、黒人を奴隷の身分から解放してやろうと考えた行為は、彼の理想主義的なロマンチストの本性が表に出たものと感じられます。確かに北軍に有利に働く目算があったものの、言行を一致させてきたリンカーンだからこそ実際に行動に移せたと言わざるを得ず、アメリカ合衆国にける英雄であり、歴代でも出色の大統領であったという評価はゆるぎないものでしょう。
リンカーンは南北戦争が北軍勝利で実質的に終結した1965年4月に、現代劇を観戦中に拳銃で暗殺されました。なお、リンカーンの直接の子孫は現存しませんが、リンカーンの母方の血筋にいるのが「フォレストガンプ」等、数々の名作で知られるアカデミー俳優のトム・ハンクスです。
世界史 Word Check!
・アンクルトムの小屋:
1852年にストゥが発表した小説。奴隷のトムを主人公に、奴隷制の悲惨さを描き奴隷制存続論争に大きな影響を与えた。
・南北戦争(1861~65):
南部のアメリカ連合国と北部のアメリカ合衆国の戦争。近代的総力戦となり、62万人が戦死した。
・奴隷解放宣言:
リンカーンが発した南部の州と地域の奴隷を自由にするという宣言。400万人が解放された。北部の奴隷州の奴隷はそのまま維持された。