水晶の夜とシリア難民

こんにちは、代ゼミサテライン予備校北千住校です。

1938年の本日11月9日にドイツ各地で反ユダヤ人暴動が起こり、ユダヤ人の居住する住宅地域、ユダヤ教会(シナゴーグ)等が次々と襲撃、放火されました。破壊されたガラスの破片が街を覆ったこの事件を「水晶の夜」と呼び、これを機にドイツ国内のユダヤ人の立場は大幅に悪化します。そして、後に起こるホロコーストへの転換点となった事件だと評されています。

当時、なぜこんな状況が起こったのかを探ってみると、まず世界恐慌のさなか、反ユダヤ主義を掲げる国家はヨーロッパではドイツだけではありませんでした。例えば、ポーランドはドイツに負けず劣らずの反ユダヤ国であり、当時多くドイツに居住していたポーランド系ユダヤ人の持つポーランド国籍のパスポートを旅券法を変更して突然無効とし、ポーランドに戻れなくしました。ドイツは驚き、その旅券法が発効される前にポーランド系ユダヤ人を狩りたて、彼らをトラックや列車に乗せてポーランドとの国境地帯に移送しましたが、ポーランドは無法にもその受けいれを拒否したのです。

ドイツ政府からもポーランド政府からも受け入れを拒否されたユダヤ人たちは国境の無人地帯で家も食料も無い状態で放浪することとなり、窮乏した生活を余儀なくされ、餓死者も大勢出たのです。これにより、ユダヤ人の一青年がこの窮状を世界に訴えるべく、パリのドイツ大使館で放った弾丸がドイツ大使館員の命を奪いました。

ナチスが1933年以来第1党となっており、ヒットラーが首相の座にあったドイツは激怒し、ついに水晶の夜の惨劇が起こったのです。ナチスはこれが自然発生的なものだと主張しましたが、現在は特にナチス党宣伝相のゲッペルスが指揮を執った官製暴動であったと認識されています。

この事件では何故か被害者のはずのユダヤ人が警察に3万人も逮捕されて強制収容所に送られるなど、これ以降ユダヤ人に対する人権無視の締め付けはエスカレートする一方になっていきます。しかし、他の国はWW2終了後ナチスの罪を糾弾する材料とするまでこれに声を上げて反対することはありませんでした。また、バチカンも反共産主義を優先し、反ユダヤ主義に対しては特に問題視しませんでした。そしてホロコーストが始まりました。

現在のシリア・ヨーロッパで起こっている難民問題が直ちにホロコーストにつながるとは思えません。しかし、移民排斥運動は否応にもエスカレートしがちなものと考えなくてはいけません。特に、他人ごとと思っている日本でも大量の単純労働移民が許可されようとしている局面です。何が一番良い結果を生むのか、常に考えながら私達も事に当たっていくべきでしょう。

世界史 Word Check!

・ホロコースト:
600万人が犠牲になったと言われるナチスドイツによるユダヤ人虐殺。

・水晶の夜:
1938年11月9~10日のよるにドイツ全土で起こったユダヤ人迫害事件。ユダヤ人焦点が破壊され、ガラス片が街路を覆い「水晶の夜」と呼ばれた。

・シンドラーのリスト:
スピルバーグ監督による1993年の映画。第二次世界大戦時にドイツによるユダヤ人のホロコーストが進む中、ドイツ人実業家オスカー・シンドラーが1100人以上ものポーランド系ユダヤ人を経営する軍需工場に必要な生産力だという名目で命を救った実話を描いた。