こんにちは、代ゼミサテライン予備校北千住校です。
紀元前98038年の今日11月10日に、魔界でデーモン小暮閣下が誕生しました。また、その99514年後の1431年11月10日には「ドラキュラ公ヴラド・ツェペシュ」ことヴラド3世が誕生しており、今日は人類にとってなかなか禍々しい日であるようです。
ヴラド3世は15世紀のワラキア公国の君主です。ワラキアはモルダヴィア、トランシルヴァニアと共に現在のルーマニア領土を形成している東欧の小国でしたが、当時オスマン帝国の侵略を受けていました。ヴラド3世は当初オスマン帝国へ人質として差し出されていましたが、オスマン帝国のワラキア支配の思惑の元、ワラキア公の座に就くことに成功します。その座から追われる期間もあったものの、1448年の即位後、当時諸侯の権力が強かったワラキアの中央集権化を進めました。
1459年機が熟したと見たヴラドはオスマン帝国の貢納を求める使者を生きたまま串刺しにして、オスマン帝国の影響力を完全に排除しようと行動に出ます。当時のオスマン帝国国主は帝国史上最大の英雄メフメト2世でしたが、大軍を率いてワラキアに何度か侵攻するたびに、兵力に劣るヴラド3世はゲリラ戦と焦土作戦で激しく抵抗し、その都度撃退しました。メフメト2世がワラキア首都のトゥルゴヴィシュテ城に入城すると、ヴラド3世による大量のオスマン兵の串刺しの林が出迎え、戦意を失ったメフメト2世はワラキアから撤退したと伝えられています。
このエピソードにあるようにヴラドの性格・行動は苛烈で、「串刺し公(ツェペシュ)」と最初に呼び出したのはオスマン兵のようです。また「ドラキュラ」という名はヴラドの父が竜騎士団に所属していたことより「竜の子」という意味で使われました。日本語だと「小竜公」とでも言われる感じでしょうか。本人も存命当時は気に入っていたようで「ブラド・ドラキュラ」との署名が残されています。
当時の事情を見る限り、ヴラドは対トルコ戦の英雄であり、たび重なる戦勝に不安におびえていたヨーロッパは沸き立ち、ヴラドが正教徒であるにもかかわらず、ローマ教会関係者から賞賛の声が届くほどでした。
その後オスマン帝国の策略で、1462年ヴラド3世は「オスマン帝国に協力した」というあり得ない罪状でハンガリー王に捕らえられ、12年間幽閉されます。その間にハンガリー王のプロパガンダでヴラド3世の行った悪事が誇張・捏造されヨーロッパ中にばらまかれました。これがのちに吸血鬼ドラキュラ伝説を生むのです。そして、解放後ワラキア公に一時返り咲きますが、すぐにオスマン帝国に攻められ戦死します。そしてワラキアはオスマン帝国の支配下に入ることとなりました。
それから500年以上が経った現在、デーモン閣下は今日も元気です。
世界史・ Word Check!
・ハンガリー王国:
東欧パンノニア平原にマジャール人が建てた王国。13世紀にモンゴルの侵入を受ける。15世紀に勢力を伸ばしたが、その後16世紀にオスマン帝国に侵略を受け、17世紀末以降はオーストリアの支配下にはいった。
・ルーマニア人:
ローマ帝国属州のダキアの先住民とローマ帝国の植民者やスラヴ人との混血によって形成されている。9世紀に東方正教会を受け入れ、14世紀にワラキア公国・モルダヴィア公国を建てた。
・ワラキア公国・モルダヴィア公国:
14世紀に後のルーマニア人となるラテン系の人々が建てた国家。15世紀にオスマン帝国の支配下にはいった。