海には出ない航海王子

こんにちは、代ゼミサテライン予備校北千住校です。

本日11月13日は、1460年ポルトガルの「エンリケ航海王子」が66歳で亡くなった日に当たります。これは1492年コロンブスが夢と冒険の旅に出港する30年以上も前のことですが、この人物の存在は、日本で考えられているようにコロンブスが大航海ブームを作ったのではなく、大航海時代の精神ががすでにこの地で華々しく躍動していた傍証の一つといえるのではないでしょうか。

さて、「エンリケ航海王子」というロマンチックな言葉の響きから、いったいどれだけの港を、大陸を、旅してきた人物なのだろう?と想像してしまいますが、実際には彼はほとんど航海経験のない生涯を追えたようです。ではなぜ「航海王子」なのでしょうか?

エンリケはポルトガル王ジョアン1世の子として生まれ、21歳の時に従軍したアフリカのセウタで攻略戦に参加します、そこで武功を立て騎士に叙されますが、その間イスラムの地で、アジアあるいはアフリカに存在すると考えられていた、伝説上のキリスト教国の国王「プレスター・ジョン」の伝説を聞き、アフリカ西岸、インドへの航海路を開く野望を抱くようになったのです。

そしてポルトガルの最南西端にあるサン・ヴィセンテ岬の、今日ではサグレスと呼ばれる一帯に、「王子の村」を建設したとされ、この村に、造船所、気象台(天体観測所)、航海術や地図製作術を学ぶ学校などを建設し、各種の航海術や地図製作技術に大きな発展をもたらした、というのです。

この王子の村については裏付けが取れていない部分も多く、存在したこと自体は否定されていないものの、幾つかの逸話については後世の創作ではないかとの疑いもあり、特に航海学校の存在については後世の創作であるとの見方が有力となっています。しかしエンリケ王子が探検事業家、パトロンとして航海者たちを援助するとともに指導し、それまで未知の領域だったアフリカ西岸を踏破させるなどしたことで、大航海時代の幕を開いたのは明らかです。

特にこのころ開発されたキャラベル船によって、探検事業は飛躍的な進展を遂げることとなりました。アゾレス諸島等多くの土地を「発見」し、植民地化を進め、1444年には、喜望峰を発見したバルトロメウ・ディアスの父であるディニス・ディアスがセネガル川とヴェルデ岬に到達。ギニアを訪れると共に、サハラ砂漠の南端に達しました。

これによりエンリケは、サハラ砂漠を通過するキャラバンに頼ることなくアフリカ南部の富を手に入れる航路を確立するという、当初の目的を達したのです。アフリカ南部から大量の金を得ることができるようになったことで、1452年にはポルトガルでは初となる金貨が鋳造されました。そしてその探検隊がシエラレオネまで達した1460年、エンリケはその生涯を閉じるのです。

ここまで見ると良く分かりますが、「大航海時代」で世界を2分するほどの巨大な果実をポルトガルとスペインにもたらしたのは新大陸の発見です。しかしそれは第2世代であり、実際に自分の親たちがロマンを求めて旅立つ姿を憧れを持って見つめ続けてきたゼネレーションとなるのです。

この世界的な事業を始めたのはエンリケ王子を初めとするアフリカの南端航路に夢を抱いた第1世代でした。そして、これこそがヨーロッパにとっての本当の意味でのコロンブスの卵であり、後世「航海王子」の愛称が与えられた理由だったのです。

*アイキャッチはリスボン旧市街

世界史 Word Check!

・大航海時代:

15~17世紀、ヨーロッパ人が大西洋を起点にインドやアメリカ大陸に至る新航路を開拓し、世界各地に進出していった時代。ポルトガル、スペインがその先鞭をつけた。

・エンリケ航海王子:

ポルトガル王ジョアン1世の王子。アフリカ西岸探検を進め、インド航路開拓への道を開いた。奴隷貿易で富を築き、航海学校や天文台を設置した。

・キャラベル船:

3本のマストを持つ小型の帆船であり、高い操舵性を有したことなどから探検活動が盛んとなった15世紀に主にポルトガル人とスペイン人の探検家たちに愛用された。