こんにちは、代ゼミサテライン予備校北千住校です。
1533年の今日11月15日は、南米ペルーでインカ帝国を滅ぼしたフランシスコ・ピサロの一行がインカ帝国の首都クスコに無血入城した日に当たります。
ピサロと言いますと、日本の歴史の授業ではアステカ帝国を滅ぼしたエルナン・コルテスと並び、まるで悪の化身であるかのような表現でののしられるのが定番の人物ですが、スペインでは今日においても職業「コンキスタドール(征服者)」の大英雄として、ユーロ発効前(2002年)までピサロとコルテスの肖像が両面のお札が発行されていました。
ピサロはスペイン王カルロス1世から正式にペルー支配の許可を取り。征服の権利や搾取の特権、貴族の位も得てからペルーを侵略しました。インカの皇帝アタワルパを人質に取り、身代金として莫大な金を手に入れたのち処刑するなど暴虐の限りを尽くし、インカ帝国を滅亡させましたが、当時新大陸は1494年の「トルデシリャス条約」でブラジルを除きスペイン領だったため、ピサロとしては正当な権利を行使したに過ぎなかったと言えなくもありません。
なお、スペインが入植した南米地域におけるインディオたちは奴隷として扱われ多くの混血児が生まれますが、北アメリカにおいては誇り高いインディアンたちは奴隷となることを拒みました。そのためアメリカ人は奴隷として黒人を輸入し、インディアンに対してはその居住地と生命を奪い、抹殺する行動に出たのです。その結果コロンブスの発見当時1000万人程度いたと考えられるインディアンは50万人を切るまで激減しました。まだ南米の出来事のほうがインディオを奴隷ながら「人間」として扱っていると言えるかもしれません。
もちろん現在のペルー人は、インディオはもちろん、混血であるメスティーソの多くも自らのルーツを「インカ人」ととらえており、ピサロは「侵略者」として一般にとらえられています。1935年にピサロの故郷のスペイン・エストレマドゥーラからリマ市に贈られたピサロの騎馬像は、最初は大聖堂の前に置かれていましたが、市民の反発で裏道に移転され、、1998年ごろには「国民感情にそぐわない」との理由で撤去されました。おそらくこれからもスペインとの認識のギャップが埋まることはないのでしょう。
世界史 Word Check!
・コンキスタドール(征服者):
ラテンアメリカで制服活動や植民地経営を行ったスペイン人。キリスト教布教も目的とし、宣教師も同行した。
・インカ帝国:
15~16世紀インカ人がアンデス地帯に築いた帝国。高度な石造り建築とキープ(結繩)が特徴。1533年ピサロに滅ぼされた。
・ピサロ:
インカ帝国を滅ぼしたスペインのコンキスタドール。奸計を用いてインカ皇帝アタワルパを捕らえ、莫大な身代金を鳥殺害した。
・リマ:
ピサロが建設した現ペルーの首都。スペインの南米大陸支配の拠点となった。