皇居と田中内閣

こんにちは、代ゼミサテライン予備校北千住校です。1868年の今日、明治天皇が江戸城に入り、江戸城の名称は東京城となりました。江戸が東京という名称になったのも1868年、明治維新の年です。現在の「皇居」という呼び方になったのは1948年(昭和23年)のことですが、今の皇居が昔の江戸城だというのは、案外知られていないような気もしますが、皆さんはいかがでしょうか。

明治天皇が江戸城に入ったというのは、大きな意味があるような気がします。一時期東京都知事を務めていた作家猪瀬直樹が書いた『ミカドの肖像』という本では、東京の中心にある皇居を切り口に、日本がどんな国であるのかというテーマを扱っています。

大学に入ると教科書に書かれていないいろいろな側面から、歴史や社会を勉強するようになります。出題範囲のある世界から、出題範囲のない世界へ。大学の勉強は受験勉強で得た知識が基礎にはなりますが、もっと自由度の高いものです。皆さんの勉強や研究が大きく発展することを願ってやみません。

さて、1974年の今日、田中角栄首相が金脈問題で辞任表明しました。田中角栄は新潟の貧しい家庭に生まれ、高等小学校(現在の中学校に相当)を卒業後に上京し、住み込みで働きながら夜間の専門学校に通い、やがて建設会社を設立して発展させます。戦後は政治の道に進み総理大臣まで上り詰めました。田中角栄内閣で押させておくべき年表は以下のようになります。

1972年 日本列島改造論発表
1972年 日中共同声明
1973年 変動為替相場制に移行
1973年 第一次石油危機
1974年 戦後初のマイナス成長

まさに激動の昭和史の一端を垣間見る感じですが、さらに日本列島改造論による地価の高騰と石油危機による原油価格の上昇で「狂乱物価」が発生し、トイレットペーパなどの日用品を買い占めが起こりました。

田中角栄は政治資金調達をめぐる金脈問題で退陣しましたが、1976年にはロッキード事件が起こり田中本人を含め多くの逮捕者が出ました。ただ、それでも田中人気は高く、逮捕時に自民党を離党して無所属になっていたにも関わらす、同年の総選挙ではトップ当選を果たし、その後も自民党に対する強い影響力を持っていました。1985年に病に倒れ1993年75歳で亡くなります。死後、ロッキード事件の裁判では有罪が確定しましたが、田中角栄の評価はさまざまであり、戦後を代表する大物政治家であったことは間違いありません。

日本史 Word Check!

・ブレトン=ウッズ体制:
1944年のIMF設立から1971年8月のニクソンショックまでの期間、米ドルと各国の通貨の交換比率を固定化させる国際通貨体制。1ドル360円だった。ブレトン=ウッズは協定が結ばれたアメリカの地名。

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