科挙制度とセンター試験

こんにちは、代ゼミサテライン予備校北千住校です。

今日は1月17日、いよいよ明後日は皆さんが待ち焦がれたセンター試験本番です。もちろん日本におけるセンター試験は人生を大きく左右するイベントであることは間違いありませんが、中国においての「科挙」はそれ以上に成功を掴むためのほぼ唯一の手段であったことから、より切実な人生の一大イベントでした。今日は「科挙」がどんなものであったか見てみましょう。

まず、「科挙」とは中国における官僚採用試験であり、隋の文帝(587年)から始まり、清末期(1905年)まで1300年もの長きに渡り存在しました。隋以前の六朝時代には、「九品官人法」が定められ、貴族等の実力者の推薦により官僚採用が行われていましたが、「九品官人法」は貴族勢力の子弟を再び官僚として登用するための制度と化しており、有能な人材を登用するものとは到底言いがたい存在でした。文帝は優秀な人材を集め、自らの権力を確立するため、実力によって官僚を登用するために「科挙」を始めました。

「科挙」の制度は3年に一度中国全土から四書五経を諳んじ、詩歌に優れた人物を30名程度試験により合格させる制度です。これは1300年の間ほぼ一貫して行われ、平均すると合格率はおよそ3000倍、日本で最難関試験と言われたロースクール以前の司法試験がおよそ30倍であり、その100倍程度の難関であったと言えます。1300年間で596回の試験があり、平均合格者の年齢は36歳、年齢制限はありませんが、女性や商人には受験資格がありませんでした。

ちなみに「科挙」試験に合格した日本人が歴史上1人だけ存在します。「天の原 ふりさけ見れば 春日なる 三笠の山に 出でし月かも」という百人一首にも採用された歌で有名な「阿倍仲麻呂」です。19歳で遣唐使として長安に留学した仲麻呂は、唐の太学で勉学しわずか8年で難解な中国語経典をマスターし、27歳で「科挙」を突破した正真正銘の天才でした。楊貴妃とのロマンスで有名な玄宗皇帝に仕え、その後何度となく帰国を試みましたが、果たすことができずに詠んだのが「天の原~」の歌でした。

なお、科挙は童試→郷試→会試→殿試の段階を踏んで試験が行われますが、後ろの3つの試験で1番だった者はそれぞれ「解元」「会元」「状元」と呼ばれ、3つの試験全てトップ合格した者は「三元」と呼ばれました。これが現在のマージャン役「大三元」の由来となります。そして最終試験トップ合格の「状元」という言葉は現在の中国にも生きていて、1000万人ほどが受ける毎年の全国統一大学入試でトップ成績だった高校生は「今年の状元」として名前と顔写真が発表されています。日本のセンター試験でこんなことが行われていたら阿倍仲麻呂ばりに是非頑張って狙ってみたかったと思いませんか?

*アイキャッチは復元された「遣唐使船」